活字は自由になる世の中だ

 拊石は上《あが》り口《ぐち》で大村を見て、「何か書けますか」と声を掛けた。「どうも持って行って見て戴くようなものは出来ません」「ちっと無遠慮に世間へ出して見給え。活字は自由になる世の中だ」「余り自由になり過ぎて困ります」「活字は自由でも、思想は自由でないからね」 緩《ゆるや》かな調子で、人に強い印象を与える詞附《ことばつき》である。強い印象を与えるのは、常に思想が霊活に動いていて、それをぴったり適応した言語で表現するからであるらしい。 拊石は会計掛の机の側へ案内せられて、座布団の上へ胡坐《あぐら》をかいて、小さい紙巻の煙草を出して呑《の》んでいると、幹事が卓《たく》の向うへ行って、紹介の挨拶をした。 拊石は不精らしく体を卓の向うへ運んだ。方々の話声の鎮まるのを、暫《しばら》く待っていて、ゆっくり口を開く。不断の会話のような調子である。「諸君からイブセンの話をして貰いたいという事でありました。わたくしもイブセンに就いて、別に深く考えたことはない。イブセンに就いてのわたくしの智識は、諸君の既に有しておられる智識以上に何物もあるまいと思う。しかし知らない事を聞くのは骨が折れる。知っていることを聞くの気楽なるに如《し》かずである。お菓子が出ているようだから、どうぞお菓子を食べながら気楽に聞いて下さい」 こんな調子である。声色《せいしょく》を励ますというような処は少しもない。それかと云って、評判に聞いている雪嶺《せつれい》の演説のように訥弁《とつべん》の能弁だというでもない。平板極まる中《うち》に、どうかすると非常に奇警な詞が、不用意にして出て来るだけは、雪嶺の演説を速記で読んだときと同じようである。 大分話が進んで来てから、こんな事を言った。「イブセンは初め諾威《ノオルウェイ》の小さいイブセンであって、それが社会劇に手を着けてから、大きな欧羅巴《ヨオロッパ》のイブセンになったというが、それが日本に伝わって来て、又ずっと小さいイブセンになりました。なんでも日本へ持って来ると小さくなる。ニイチェも小さくなる。トルストイも小さくなる。ニイチェの詞を思い出す。地球はその時小さくなった。そしてその上に何物をも小さくする、最後の人類がひょこひょこ跳《おど》っているのである。我等は幸福を発見したと、最後の人類は云って、目をしばだたくのである。日本人は色々な主義、色々なイスムを輸入して来て、それを弄《もてあそ》んで目をしばだたいている。何もかも日本人の手に入《い》っては小さいおもちゃになるのであるから、元が恐ろしい物であったからと云って、剛《こわ》がるには当らない。何も山鹿素行《やまがそこう》や、四十七士や、水戸浪士を地下に起して、その小さくなったイブセンやトルストイに対抗させるには及ばないのです」まあ、こんな調子である。 それから新しい事でもなんでもないが、純一がこれまで蓄えて持っている思想の中心を動かされたのは拊石が諷刺《ふうし》的な語調から、忽然《こつぜん》真面目になって、イブセンの個人主義に両面があるということを語り出した処であった。拊石は先《ま》ず、次第にあらゆる習慣の縛《いましめ》を脱して、個人を個人として生活させようとする思想が、イブセンの生涯の作の上に、所謂《いわゆる》赤い糸になって一貫していることを言った。「種々の別離を己は閲《けみ》した」という様な心持である。これを聞いている間は、純一もこれまで自分が舟に棹《さお》さして下って行く順流を、演説者も同舟の人になって下って行くように感じていた。ところが、拊石は話頭を一転して、「これがイブセンの自己の一面です、Peer《ペエル》 Gynt《ギント》 に詩人的に発揮している自己の一面です、世間的自己です」と結んで置いて、別にイブセンには最初から他の一面の自己があるということを言った。「若しこの一面がなかったら、イブセンは放縦《ほうじゅう》を説くに過ぎない。イブセンはそんな人物ではない。イブセンには別に出世間的自己があって、始終向上して行《ゆ》こうとする。それが Brand《ブラント》 に於いて発揮せられている。イブセンは何の為めに習慣の朽ちたる索《つな》を引きちぎって棄てるか。ここに自由を得て、身を泥土《でいど》に委《ゆだ》ねようとするのではない。強い翼に風を切って、高く遠く飛ぼうとするのである」純一はこれを聞いていて、その語気が少しも荘重に聞かせようとする様子でなく、依然として平坦な会話の調子を維持しているにも拘《かかわ》らず、無理に自分の乗っている船の舳先《へさき》を旋《めぐ》らして逆に急流を溯《さかのぼ》らせられるような感じがして、それから暫くの間は、独りで深い思量に耽《ふけ》った。

— posted by id at 07:19 pm  

T: Y: ALL: Online:
Created in 0.1732 sec.

http://apmobile.org.uk/