今から新聞社に行く

「僕は今から新聞社に行くから、又遊びに来給え。夜は行《い》けないよ」 机の上の書類を取って懐《ふところ》に入れる。長押《なげし》から中折れの帽を取って被る。転瞬倏忽《てんしゅんしゅくこつ》の間に梯子段を降りるのである。純一は呆《あき》れて帽を攫《つか》んで後《あと》に続いた。

[#5字下げ]参[#「参」は中見出し]

 初めて大石を尋ねた翌日の事である。純一は居所を極めようと思って宿屋を出た。 袖浦館を見てから、下宿屋というものが厭になっているので、どこか静かな処《ところ》で小さい家を借りようと思うのである。前日には大石に袖浦館の前で別れて、上野へ行って文部省の展覧会を見て帰った。その時上野がなんとなく気に入ったので、きょうは新橋から真直に上野へ来た。 博物館の門に突き当って、根岸の方へ行《ゆ》こうか、きのう通った谷中の方へ行こうかと暫《しばら》く考えたが、大石を尋ねるに便利な処をと思っているので、足が自然に谷中の方へ向いた。美術学校の角を曲って、桜木町から天王寺の墓地へ出た。 今日も風のない好《い》い天気である。銀杏《いちょう》の落葉の散らばっている敷石を踏んで、大小種々な墓石に掘ってある、知らぬ人の名を読みながら、ぶらぶらと初音町《はつねちょう》に出た。 人通りの少い広々とした町に、生垣を結い繞《めぐ》らした小さい家の並んでいる処がある。その中の一軒の、自然木《しぜんぼく》の門柱《もんばしら》に取り附けた柴折戸《しおりど》に、貸家の札が張ってあるのが目に附いた。 純一がその門の前に立ち留まって、垣の内を覗いていると、隣の植木鉢を沢山|入口《いりくち》に並べてある家から、白髪《しらが》の婆あさんが出て来て話をし掛けた。聞けば貸家になっている家は、この婆あさんの亭主で、植木屋をしていた爺いさんが、倅《せがれ》に娵《よめ》を取って家を譲るとき、新しく立てて這入《はい》った隠居所なのである。爺いさんは四年前に、倅が戦争に行っている留守に、七十幾つとかで亡くなった。それから貸家にして、油画をかく人に借《か》していたが、先月その人が京都へ越して行って、明家《あきや》になったというのである。画家は一人ものであった。食事は植木屋から運んだ。総てこの家から上がる銭は婆あさんのものになるので、若《も》し一人もののお客が附いたら、やはり前通りに食事の世話をしても好《い》いと云っている。 婆あさんの質樸《しつぼく》で、身綺麗《みぎれい》にしているのが、純一にはひどく気に入った。婆あさんの方でも、純一の大人しそうな、品の好《い》いのが、一目見て気に入ったので、「お友達があって、御一しょにお住まいになるなら、それでも宜しゅうございますが、出来ることならあなたのようなお方に、お一人で住まって戴《いただ》きたいのでございます」と云った。

— posted by id at 06:58 pm  

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