地獄を買わない奴

「それじゃあ地獄を買わない奴は、厳粛な態度は取れないと云うのかね」「そりゃあ地獄も買うことの出来ないような偏屈な奴もありましょう。買っていても、矯飾して知らない振をしている奴もありましょう。そういう奴は内生活が貧弱です。そんな奴には芸術の趣味なんかは分かりません。小説なんぞは書けません。懺悔の為様がない。告白をする内容がない。厳粛な態度の取りようがないと云うのです」「ふん。それじゃあ偏屈でもなくって、矯飾もしないで、芸術の趣味の分かる、製作の出来る人間はいないと云うのかね」「そりゃあ、そんな神のようなものが有るとも無いとも、誰《たれ》も断言はしていません。しかし批評の対象は神のようなものではありません。人間です」「人間は皆地獄を買うのかね」「先生。僕を冷かしては行《い》けません」「冷かしなんぞはしない」大石は睫毛《まつげ》をも動かさずに、ゆったり胡坐をかいている。 帳場のぼんぼん時計が、前触《まえぶれ》に鍋《なべ》に物の焦げ附くような音をさせて、大業《おおぎょう》に打ち出した。留所《とめど》もなく打っている。十二時である。 近藤は気の附いたような様子をして云った。「お邪魔をいたしました。又伺います」「さようなら。こっちのお客が待たせてあるから、お見送りはしませんよ」「どう致しまして」近藤は席を立った。 大石は暫くじっと純一の顔を見ていて、気色《けしき》を柔げて詞を掛けた。「君ひどく待たせたねえ。飯前じゃないか」「まだ食べたくありません」「何時に朝飯を食ったのだい」「六時半です」

— posted by id at 06:57 pm  

T: Y: ALL: Online:
Created in 0.0354 sec.

http://apmobile.org.uk/